あっこのブログ

おばちゃん探偵、法科大学院に学ぶ。

Date:2016.12.05(Mon)10:11 | Category:[未分類]

秘密のあっ子ちゃん(25)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 その日、電話をかけてきた女性は、調査を依頼した場合どれくらいの期間で判明するのかということをしきりに聞いてきました。
 「ケースバイケースですので、一概にどれくらいの期間で判明するかということになりますと、調査に入る前からは申し上げられないのですが」
 私がそう答えると、彼女は、「実は、二週間後に日本を離れるので、それまでに探してほしんです」と言ったのです。
 彼女は四十二才。インテリアデザイナーで、建築士の資格も持っていました。これまで一緒になってもいいと思った人がいなかった訳ではありませんが、仕事に夢中になっているうちに結婚しないできました。
 今回、彼女は恩師の勧めもあって、建築分野の知識を深めるために、ヨーロッパへ二年間留学することになっていたのでした。 
 最近、彼女はよく夢に見る人がいると言います。一度目は「ああ懐かしい人の夢を見た」で済んだのですが、三度四度と重なるうちに、今どうしているのかが無性に気になり、日本を立つ前にどうしても会いたくなったのでした。
 今回の依頼人(42才、女性)が日本を離れる前に是非会いたいという人は、学生時代の恋人でした。
 彼女は東京の有名私立大学に通い、剣道部に所属していました。
 高校生時分から剣道に憧がれていました。「小手」や「面」で相手を打った時、一瞬全てが静止するような、あの緊張感が好きでした。 しかし、厳格な父は「女が竹刀を振り回して、嫁に行けるか!」と、決して剣道部に入ることを許してくれませんでした。
 親元を離れて東京の大学へ入った彼女は、今度こそ剣道ができると喜び勇んで入部したのでした。
 初めて部に顔を出したその日から、他の新入部員三名と共に、キャプテンが基礎から丁寧に教えてくれました。
 素振りをするにも、「腕を絞れ!」とキャプテンの檄が飛びます。竹刀がフラフラして、なかなかうまくいきません。何十回、何百回と振っているうちに、腕も上がらなくなります。あるいは、摺り足の練習の時には、「なんか君の摺り足を見ていると、踊ってるみたいだな」と言われたりもします。
 それでも、彼女は喜々として部に通っていました。 踊っているように見える「摺り足」でも、根気よく指導してくれているキャプテン。彼女は、剣道部に入部して三日も経たないうちに、そのキャプテンがとても遠慮している人がいることに気づきました。
 その人は学生にしては少し老けて見えるのですが、コーチとか講師にしては若すぎます。
 すぐに、彼は一年留年している五回生で、前の主将だったということが分りました。剣道の腕はかなりのもので、様々な記録を持っているということも聞きました。
 日が経つにつれて、初めて見た時の無口でとっつきにくい印象は、次第に彼の男らしさと彼女の目に映っていくようになりました。 彼女が彼に憧れの想いをい抱くのには時間がかかりませんでした。練習のあと、部員みんなで喫茶店へ繰り出し、そこで雑談するのが一日の一番の楽しみとなっていきました。彼女は彼の存在を身近で感じ、彼の声を耳にすることだけで幸せでした。
 ところが、連休を利用して東京へやってきた両親に、竹刀や胴着を見つけられてしまったのです。父は激怒しました。
 「あれほど言ってあったのに、竹刀を振り回すために大学へやったんではない!すぐさま剣道など辞めなければ家に連れ帰る!」と言い出したのでした。
 連休に彼女の様子を見に来た父は、竹刀と胴着を発見して激怒しました。
 「竹刀を振り回すために大学へやったんではない!すぐさま剣道など退めなければ家へ連れ帰る!」
 女が竹刀など振り回していれば嫁のもらい手がないというのが父の口癖でした。 二十四、五年前のこととはいえ、彼女の父親はかなり古風な考え方の人でした。しかも、子は親に従うものと頭から決めてかかっているのです。親元から離れているのをいいことに父の厳命に従わず、内緒で剣道を続けていたということが分れば、彼女は勘当同然になるということくらい、父との十八年のつきあいで嫌というほど思い知っていました。 
 彼女は泣く泣く剣道部に退部届けを出しに行ったのです。キャプテンは突然の彼女の退部の申し出に驚き、懸命に慰留してくれました。しかし、いくら引き留めてもらっても留まる訳にはいきません。
 チラッと彼の様子を伺いました。彼は彼女とキャプテンの話が聞こえているはずなのに、素知らぬ顔をして素振りをしていました。 剣道部道場から出た彼女は、急に涙が溢れ出ました。もうこれで彼との繋ながりがなくなったのだと思うと、どうしても涙を止めることができませんでした。その日、彼女は同級生に出会わないように、裏道をすり抜けて校門を走って出たのでした。
 それから半年、部活を退めた彼女は夕刻からの空いた時間を埋めるために、アルバイトに勤しみました。あれから彼とは顔を合わすことはありませんでした。剣道部へ行かない限り、広い学内で、多くの学生の中から彼の姿を見つけることは不可能でした。とは言っても、彼の姿を見るために部室へ行くなどという勇気は、彼女にはありませんでした。 
 「私の片想いに決っているのだから、どうなるものでもない」彼女は、ほとんど諦めかけていました。
 秋の学園祭も終り、季節は冬に入ろうとしたころ、彼女は一通の手紙を受け取りました。差し出し人は彼でした。彼女は驚き、封を切る手ももどかしく、急いで手紙を開けました。
 それは彼からのラブレターでした。
 彼女は我が目を疑いました。まさか、彼が自分のことを想ってくれていたなどとは信じられない思いでした。
 あれから二十四年。その手紙に何と書いてあったのか、彼女は今となってはよく覚えていませんが、一行だけ鮮明に記憶に残っている部分があります。

<続く>

Date:2016.11.08(Tue)16:11 | Category:[未分類]

秘密のあっ子ちゃん(24)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 あれから五十年近くが経とうとしている今でも、彼女(75才)は彼が戦地から引き揚げてきた時に再会を拒否したことが、唯一つの心残りとなっていました。 もうこの年になれば、嫁ついでいたからと言っても、苛酷な戦場で生き抜き、真っ先に会いに来てくれた最愛の人に、何故飛んで行って会わなかったのだろうかと我ながら不思議にさえ思われます。“若さ”ゆえの頑なまでの潔癖さでした。 彼女は、今、あの時一目だけでも会って、戦地での苦労の労いを言わなかったことを悔いていました。そして、生きているとは思ってもみなかったこととはいえ、帰還を待ちきれずに嫁ついでいった自分の許しを請わず、五十年もの年月を経てしまったことが消しようもない心のしこりとなっていました。
 「元気で暮らしているんだろうかとかどんな風に生きているだろうかとか、ずっとあの人のことを想ってきました。自分の身に何かある度に、いつも彼が守ってくれると思っていました。一度でいいですから、死ぬ前にせめてもう一度会いたいのです。そうでないと、私は自分の心の整理を一生しきれないのではないかと思うんです」
 依頼時に、彼女はそう言っていました。
 彼女(75才)が彼のことについて正確に覚えていることと言えば、山梨県出身ということと勤務先だった商社の名前だけでした。手がかりはそれだけでした。軍籍の方は手紙を一度出しただけだったので、所属部隊がうろ覚えだったのです。 戦前に二人が勤務していた商社は、社名を少し変えてはいたものの現存していました。しかし、なにぶん五十年以上も前のこと、人事課でも総務課でもそんな昔の書類は残っていません。 担当の人は大変親切な人で、かなりの時間を割いて記録が残っていないかと調べてくれたのですが、結果は思わしくありませんでした。
 「お役に立てずすみません」
 何度も足を運んでいた我がスタッフに対して、係の人は却って恐縮さえしてくれたのでした。
 これではいたしかたありません。例の如く、「山梨県全域の彼と同姓のお宅を一軒一軒当たっていくしか手はないな 」と考えていた私でした。しかし、うろ覚えの部隊名であっても、念のために軍を当たってみることにしました。
 調査の結果、やはりと言うべきか、旧陸軍には彼女が私達に伝えた部隊名はありませんでした。
 ところが、思わぬ所から吉報が入ったのです。
 彼が出征前に勤務していた商社は、五十年以上も昔の記録など既に処分されていて無く、私達は念のためにと、依頼人(75才)がうろ覚えだった部隊名から陸軍関係や出身地、山梨県の役所関係をも当たってみることにしたのでした。
 しかし、そうした部隊はやはり存在せず、彼女の記憶違いだと分りました。
 やむなく、山梨県全域の彼と同じ苗字の家庭を一軒一軒当たっていく膨大な作業に取りかかろうとした時、山梨の役所から一本の電話が入りました。
 「先日おっしゃっていた部隊はこちらの方にはありませんでしたが、お尋ねの方のお名前に聞き覚えがあったので、ちょっと気になって、ひょっとしたらと思いまして連絡を差し上たのですが…あなたのおっしゃる方が私の知っている人とどうも同一人物のような気がするんです」
連絡をくれたのは、尋ねに行った時、親切に対応してくれた課長だと言う、初老の男性でした。
 「いやね、その人は市の助役や教育長などを歴任された方で、それでお話を聞いた時、どこかで聞いた名前だなと思ってたんですよ」課長はそう説明してくれました。
ところが、課長はその人が出征前にどこで勤務していたかとか、いつ除隊したかなどという、古い話は知りませんでした。
 「私が新任の時に、既に役場におられましたから…」そう、すまなそうに言います。
 逆に、私達は彼の戦後の人生については知りようもありません。課長が言う人と彼が同一人物であると確認する方法は、唯一つ、直接本人に聞くしかありませんでした。 
 「それで、その方は、今どちらに?」私は尋ねました。 
 「それが、三十年程前に失くなっているんです」
 「エッ?!失くなっておられるんですか…?」
 「ええ、立派な方でしたが、惜しいことに癌で失くなられました」
 「そうですか…。それでは、どなたかお身内の方はいらっしゃいませんか?」 「確か奥さんももう失くなられたと聞きました。お子さんもいらっしゃいませんでしたし…。そうそう、弟さんはご健在ですよ」  三日後、課長は東京に住む弟さんの住所を調べて、再び連絡を入れてくれました。
 私達は、早速、弟さんに連絡を入れたのです。弟さんの話では、失くなったお兄さんというのは、戦前、確かにその商社に勤務しており、昭和十六年に出征し、各地を転戦して最後にはシンガポールで捕虜となって、昭和二十四年に引き揚げてきたと言うのです。 
 依頼人が探していた人と間違いありません。
 役所の課長が言うように、彼は戦後、地元で教育委員長や役場の助役を歴任し、昭和四十三年の秋、胃癌のため五十二才の若さで失くなっていました。
 「そうですか。兄にも若いころ、そんな人がいたのですか…」
 弟さんは彼の戒名と葬むられている菩提寺を私達に教えてくれたのでした。
 私は、彼は既に昭和四十三年に死亡していたことと彼の戒名や菩提寺を報告書にまとめて、依頼人(75才)に郵送しました。
 五日後、彼女から一通の手紙が届きました。
 「探しにくいお願いでございましたのに、最後まで調査していただき有難とうございました。
 思いもよらぬ悲報でしたが、報告書に心のこもったお手紙まで添えていただき感謝しております。
 今はまだ、只々忙然としておりますが、気持ちが落ちつけば、お寺の方へお参りさせていただきたいと思っております。
 戦争へと押し流されていった中での出会い。それが、五十年経った今、こんな形で終わったのは本当に残念な思いでございます。『ああ、お互いに年を取ったね』という言葉まで用意しておりましたものを…
 調査していただいた方には厚くお礼を申し上げていたと、くれぐれもよろしくお伝え下さい」手紙にはそう書かれていました。
 「今一度会わなければ、一生心の整理がつかない」と言っていた彼女。彼が既に死亡していた今となって、果して彼女は彼女自身の戦後を終えることができるのだろうかと、私は人と人との出会いの儚なさを思わずにはいられませんでした。

<終>

Date:2016.10.04(Tue)17:44 | Category:[未分類]

秘密のあっ子ちゃん(23)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 今年は戦後五十周年で、八月十五日に向けて、各地で色々な催しが計画され、またマスコミでも様々な企画を取り上げ始めています。 「戦後五十年」-「もはや戦後ではない」と言われて既に何十年の月日が経ったことか。しかし、私はこの仕事をしていて、まだ「戦後」を迎えきれない人をたくさん見てきました。  今日はそうした方々の人生の一つをお話ししましょう。
 依頼人は七十五才の女性でした。
 彼女は十九才だった昭和十三、四年ごろ、知りあいのつてで、ある商社に勤めに始めました。彼女の実家は彼女が女学校時代までは盛大に商売をしていたのですが、中国での戦争が激しくなるにつれてパッタリとダメになり、生活も苦しくなっていったからでした。 三つ年上の彼と知り合ったのはその会社でした。彼は彼女とは別の部署で勤務していたので、話をしたことはありませんでしたが、優秀な人材だった彼を皆が知っていました。
 そんなある日、会社から有志が集まってハイキングに行くことになったのでした。
 彼も、もちろん彼女も参加していました。初めて言葉を交わしたのはその時だったのです。
 昭和十四年、会社の有志達で行ったハイキング。その道すがら、彼女(当時19才)は川にはまってしまったのです。
 出発してからかなり歩いた後に、グループは美しい川の河原に出ました。休憩がてらに、みんなで河原に降り、川の石づたいにピョンピョンと飛びながら遊んでいました。
 彼女は運動神経には自信がありましたので、何名かの女社員とともに男子社員に混じって川の中の石から石へ跳ねていたのです。次の石へ足を降ろした時、びっしりとはえた苔に足を滑らせ、「あっ!」と思った瞬間、川に落ちてしまいました。
「川にはまった」と言っても膝から下を濡らせた程度でしたが、その時彼がすかさずタオルを投げてくれたのでした。
 川から出た彼女はただ一言、「ありがとうございました」と言って、タオルを返したのです。それ以上は何も言えませんでした。
 しかし、それがきっかけで、社内で顔を合わせると言葉を交わすようになっていきました。
 一年後、彼女は両親の言いつけで会社を辞めました。お互いの気持ちを確かめることもできず、彼女は会社から去らねばなりませんでした。
 扱う商品を変えた実家の商売は持ち直し、彼女(当時20才)は父の言いつけで会社を辞め、花嫁修業をすることになったのです。 やっと言葉を交すようになった二人でしたが、お互いの気持ちを確認することもできずに、彼女は会社を去らなければなりませんでした。
 ひと月ほど過ぎたある日、会社の同僚だった女友達が遊びにきました。久しぶりの友人の来訪に、彼女は大喜びで自分の部屋へ通しました。母がお茶を置いて部屋を出ていくと、友人はそっと一通の手紙を差し出しました。
 彼からの手紙でした。
 次の日曜日、彼女は習い事を口実に家を出て、手紙に記してあった神社の境内へと向いました。
 それが初めてのデートでした。
 「好きだ」とか「交際してくれ」とかという言葉はお互い一言も口にしませんでしたが、ただ黙って歩いているだけで気持ちは十分分りました。
 こうして、彼女は両親の目を盗んでは、時折彼と会うようになったのでした。 彼は鷹揚な人柄で、話が豊富で文学を愛する青年でした。彼は彼女をとても大切にしてくれました。
 彼とのつきあいの中で、彼女は今も胸に残っている思い出があります。
 
彼女(75才)が今でも忘れられない彼の思い出とは、会社を退職した後もつきあいのあった同僚である親友に誘われて、グループで海水浴に行った時のことでした。この海水浴には、初めて言葉を交わしたあのハイキングと同様、彼もまた参加していました。
 グループで出かけたとはいえ、それは昭和十五年当時のこと故、男性は男同志で競泳に興じ、女性は女性で波打ち際で遊んでいるという様でした。
 昼食の時だけはみんなで輪になって食べました。食事が終わりかけると、「沖の島まで泳ごう」と誰かが言い出しました。男性達が立ち上がります。
 「さぁ、君達もいこう」彼が女達に言いました。彼女以外の同僚は、その言葉に促されて波打ち際に走っていきます。
 「どうして、行かないの?」
そう聞く彼に、彼女は
「私、泳げないから…」口ごもりながら、そう答えました。
 「大丈夫だよ」彼はそう言うと、彼女の手を引っ張って、ずんずんと海の中へ入っていきます。胸のあたりまで水がきた時、彼は突然彼女をおぶって泳ぎ出しました。
 考えてもみなかった彼の行動に驚き、友人達に何と思われるかとハラハラしながらも、彼女は喜びを噛みしめていました。初めて触れる彼の肌に男そのものを感じながら、しっかりと自分の腕を彼の首に巻きつけていたのでした。
 昭和十六年になると、彼に召集令状が届きました。壮行会の日、彼女には彼からの知らせは来ませんでした。
 それどころか、彼女は彼が応召したことすら知らなかったのです。何通手紙を書いても返事が来ず、長い間彼からの知らせが届かないので、どうしたのかと不安になり、会社に問い合わせて初めて、彼女は彼が出征したことを知ったのでした。 
 彼女はショックでした。彼が出征してしまったこともそうですが、それを知らせてくれなかった彼の仕打ちが耐えられませんでした。自分を大切にしてくれていると信じていた彼は、結局彼女をどう思っているのかということどころか、出征することさえも知らせてくれなかったのです。二、三ケ月は食事も喉咽を通りませんでした。
 そんなころ、彼からやっと手紙が届きました。
 その手紙の中で彼は、様々の事情があって連絡する間もなく出征してしまったことをたいそう詫びていました。そして、彼の得意な短歌が一首書き添えられていました。それは、初めて彼が彼女に愛を打ち明ける歌でした。
 彼女は彼が手紙の最後に彼が書いてきたことを、五十年経った今も鮮やかに覚えています。
 「必ず生きて帰る。再び君に会えるよう、きっと生きて帰る。そして、帰ったら、真っ先に君に接吻しようと思う」
彼女は真紅な口紅を塗った唇を返信として書いた便箋に押しあてて、彼の部隊宛に送ったのでした。
 ところが、彼からの連絡はそれが最後となったのでした。昭和二十年、終戦を迎えても彼からの連絡は入りませんでした。
 彼女は昭和二十三年、二十八才で結婚しました。
 戦中も終戦後も両親は口うるさく彼女の結婚を急かせました。しかし、彼女はどんな縁談話にも頑として首を縦に振りませんでした。しかし、彼からの連絡が途絶えて七年、もう二十八才になればいつまでも拒否し続けることはできなかったのです。
 嫁いで一年半程経った昭和二十四年の秋、彼女は久しぶりに里帰りをしていました。実家は空襲で焼け、新しい住居を構えていました。
 そんなある日、彼からの最初のラブレーターを届けてくれたあの親友が、戦後初めて彼女を訪ねてきました。
 友人は彼女の顔を見るなり、耳元でこう囁やきました。  
 「あの人が戦地から戻ってきはったよ。終戦後、南方で捕虜になってはったらしくて、ようやく帰ってきはったんや。真っ先にあんたに会いたい言うて、訪ねていかはったらしいけど、前の家は全部焼けているから、あんたがどうなったか分れへんし、私とこへ来たら何か消息が分るかと思うてウチへ来はったんや。あの人、今、ウチの近所で待ってはんねんやけど…」  彼女は愕然としました。彼は生きていたのです。
 彼(当時32才)は生きていました。
 親友の話によると、彼は彼女(当時29才)が結婚したことも知らず、彼女に会うため、引き揚げると真っすぐに大阪へ来て、今、近くで待っているというのです。
 彼女は愕然としました。八年もの間連絡がなく、既に戦死したものと思い込み、彼女は親に急かれるまま結婚したのです。
 今すぐにでも走っていって、彼の胸にすがりついて泣きたい衝動に駆られました。しかし、もはやそれはできません。親友が帰っていった後、彼女は自分の部屋に引きこもり、号泣したのでした。
 翌日、再び訪ねて来てくれた親友は、彼女に昨日の彼の様子を報告してくれました。
 彼女が既に結婚していることと『だからもう会うことはできない』と彼女が言ったと伝えると、彼は「そうですか。しかたないな…」と言って、帰っていったというのです。
 結局、彼女は戦後五十年間、彼と一度も会っていません。昭和十六年、彼が出征する前に会ったのが最後となったのです。
 彼女は、あの時彼が訪ねてきてくれた時に、会わなかったことがずっと心残りになっていました。

<続く>

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プロフィール

佐藤あつ子

Name:佐藤あつ子
大阪府出身。奈良教育大学を卒業後、自らの「思い出の人を探したい。しかし、あまりにも料金が高すぎる」という経験から、従来のイメージを払拭した調査業者を目指し、昭和63年10月「初恋の人探します社」を創業。思い出の人探し(所在調査)をはじめ、家系図調査、企業調査など、長年培ったノウハウを元にした独自の調査方法で、判明率は90%以上を誇る。
また執筆活動においても大阪新聞に連載された「秘密のあつ子ちゃん 美人探偵・調査ファイル」のエピソードをまとめた「初恋の人、探します」(遊タイム出版)が、日本リスクマネジメント学会第3回RM文学賞を受賞。平成10年には松竹新喜劇において、同書を原作にした舞台「初恋の人探します社」(渋谷天外脚本)が上演された。
その他にも、ラジオ・テレビ出演、雑誌寄稿、起業家への創業支援や大学でのアントレプレナー養成などでの講演など、各分野において精力的に活動している。

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