あっこのブログ

おばちゃん探偵、法科大学院に学ぶ。

Date:2018.02.01(Thu)16:35 | Category:[未分類]

秘密のあっ子ちゃん(35)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 こういう仕事をしていると、肉身の情の強さというものをつくづく感じざるを得ません。家出した娘を心配して食も喉を通らないという両親はもちろんのこと、三十年も蒸発したまま行方不明になっている兄を探してほしいという姉妹、生き別れた父親を探してほしいという娘さん、その想いやひっかかりは簡単に言葉で言い表わせないものがあります。
 今回は今年七十才になる女性のお話しをしましょう。 その老婦人は、昨年の春に初めて当社にやってきました。上品な感じで、その上七十という年令にも関わらず大層お元気そうな方でした。
 彼女はなかなか本題に入りづらそうで、私は暫くの間彼女と何やかやと世間話をしていました。その話によると、彼女は十年以上も前につれあいを失くし、今は一人暮らしをしているとのことで、趣味はゴルフ、その腕前はシングル並み、古くからの友人達と温泉や海外の旅行によく行くという、見た通りの何不自由のない生活をしている優しそうなおばあさんでした。
 ところが、そんな一見何の心配もない悠々自適の老婦人と見える彼女にも、実は三十年以上に亘って誰にも言えず、ただ一人で悩み続けてきたあるわだかまりを抱えていたのでした。
 依頼人(70才)が嫁いだのは、昭和十八年の秋、彼女が十八歳の時のことでした。夫となった人は十才年上の男らしくて優しい人でしたが、少し複雑な家庭環境の中で育った人でした。
 と言うのも、遠縁に当たる家に男子がいなかったため、三男であった彼は生まれてすぐに養子に貰われていったのです。成人間近になって養母が死亡し、養父は彼とあまり年の変わらない若い女性を後妻に迎えました。
 なくなった最初の養母と同様、この五才年上の二度目の養母は彼を弟のように可愛がってくれました。
 しかし、依頼人との縁談が持ち上がった頃、今度は養父が死亡したのです。年離れた夫が亡くなると、若い養母はこれまで以上に彼を可愛がることに没頭するようになりました。
 養父の喪が明けると、依頼人と彼は、戦時中のこと故、ささやかな式をあげて入籍しました。婚約時代、何回か訪ねた時はとても優しかった若い姑は、彼女が嫁になるやいなや、とても厳しくなりました。それは彼女の挙動を監視するかのようで、彼女は些細な失敗でも口やかましく罵られました。まるで、彼の妻となった依頼人への嫉妬のほうに…。
 依頼人は結婚した途端に豹変した夫の養母の仕打ちに耐え、嫁としての勤めに精を出していました。
 一年後、彼女は身籠りました。夫は初めての子を大層喜び、彼女の体をいたわってくれましたが、出産経験のない若い姑はますます彼女につらく当たりました。 そんな矢先、夫に召集令状が届いて、彼は産み月を待たずに出征していきました。昭和十九年も押し詰まった寒い冬の日のことでした。 夫が出征していくと、彼女は毎日ちくちくといやみを言われ、時には些細なことでも厳しく叱責される姑との二人暮らしをじっと耐えるの中で長男を出産しました。
 「孫」ができると姑は夫の代りに長男を溺愛するようになりました。息子の世話の一切を姑がし、彼女は我が子でありながら手を触れることさえできない状態が続いたのです。しかも、長男が日に日に成長するに従って、姑は彼女をまるで邪魔者かのように扱い出しました。
 こうした状況を知った彼女の実家では、「早く子供を連れて帰ってくるように」と矢のように催促し出しました。
 そしてついに、長男が生まれて半年後、昭和二十年七月に彼女は長男を連れて、婚家を出ました。

<続>

Date:2017.12.04(Mon)15:48 | Category:[未分類]

秘密のあっ子ちゃん(34)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 数多くの思い出の人探しの依頼を受けていると、中には懐しく心地良い記憶だけではない人もいます。確かに、その出会いは素晴しかったのですが、若気の至りと言いますか、自分の対応がひどく相手を傷つけたのではないかと悔い、それをずっと気にかけておられる人もいるのです。
 二ケ月程前に依頼されてきた六十三才の男性もそうでした。
 彼は依頼するに当たって長い手紙を寄こしてくれました。手紙はこんな書き出しで始まっていました。
 「前略 突然のご無礼お許し下さい。私は三十八年前に別れた女性の消息を求めてます。それは初恋の爽やかさには程遠く、身勝手な男の一方的な別れでした。自己嫌悪と罪悪感に苛まれながら、私は長らくその女性のことを意識して参りました…」
 学生時代、彼は肺結核を患い、三年間療養生活を送りました。その時に出会ったのが、療養所で看護婦をしていた彼女です。彼女はともすれば荒んでいく彼の心を支え、献身的に看護をしてくれました。退院後も二人はデートを重ねるのですが、彼の身勝手で一方的に別れたのでした。
 彼はそのことに非常に悔い、自責の念にかられていたのです。
 彼(63才)の一家は、戦後、朝鮮半島から引き揚げてきました。生活の糧を求めて各地を転々と移り住み、最後に大阪へたどり着いたのです。
 台所もトイレもない薄汚れた引揚者寮の一室でした。年老いた両親と姉の一家四人は肩を寄せ合い、貧しい暮らしに耐えていました。彼の年離れた姉は戦争未亡人でしたが、一家の家計はその姉の僅かな収入で支えていました。 
 彼が大学進学を迎えた時、両親は生活の苦しさを理由に大反対しましたが、そのお姉さんが両親を説得し、学費を捻出するためにミナミのキャバレーへ初めての水商売に出たのです。 
 彼は姉の献身に報いるべく必死で勉強し、関西の名門国立大学に合格しました。 大学に入学した彼は当初こそ真面目に勉学に励んでいたのですが、お姉さんの稼ぎを良いことに、次第に映画や麻省にうつつを抜かすようになり、その自堕落な生活がたたって、三年生の春、肋膜炎を発症しました。連日高熱が続き、一ケ月が経っても病状は収まりませんでした。そして、肺結核と診断されたのです。 彼が緊急に運ばれた療養所に、彼女がいたのです。彼女は二十才、清純で優しさの漂う初々しい看護婦でした。
  その療養所は大阪の郊外に位置する田園地帯の丘の上のありました。旧陸軍の施設をそのまま利用したという病棟は古びた校舎を思わせるような建物で、十棟ほどが広大な敷地の中に点在していました。周りには人家はなく、隣接する幾つもの潅漑用の溜め池の土手には、療養所と外界を遮断するかのように鉄条網が張り巡らせてありました。今ではもう廃院となっているこの療養所は、当時結核専門の病院として、戦中よりの歴史を有し、ベット数八百を超えるかなりの大規模な病院でした。
 緊急入院した彼の身体は衰弱しきっており、半年以上も個室のベットから起き上がることができませんでした。
 翌年の春、やっと病状が落ち着き、彼は個室から六人部屋に移ることができました。彼女はその部屋の担当の看護婦でした。
 彼女は無口でおとなしい性格で、規則通りに大きなマスクをつけてほとんど素顔を見せることもなく、また、患者と軽口を叩いたりなど決してしない、どちらかと言えば地味な存在でした。しかし、黙々と仕事をこなす彼女の姿は患者達の信頼と好感を集めていました。
 彼の病状は入院した翌年の春には一応安定したものの、夏になると周期的な病巣の活性化のために再び高熱に襲われ、彼はその苦しさと闘っていました。
 そんな時、同室の患者がいつもの巡回にやってきた彼女に、「勤務が終ったら、アイツを見舞ってやってほしい」と密かに声をかけたのでした。おそらく、若い二人をからかうつもりの冗談だったのでしょう。
 その日の夕方、彼女は制服姿のまま彼のベットの側に座りました。彼女は彼に何も話しかけませんでした。彼もまた何を話していいか分りませんでした。ほとんど会話のないまま、消灯前に彼の氷枕を取り替えて、彼女は帰っていきました。 このことがあってから、彼は彼女の存在を意識し始めました。
 秋になると、彼は担当医から最悪の宣告を受けました。肺に生じた空洞があまりにも大きすぎて、もはや手術などの治療は不可能であると言うのです。安静にしている以外方法はないということは、治瘉の見込みが薄いということを意味していました。
 彼は初めて死の恐怖を感じました。そして、自堕落だった自分の学生生活を悔い、姉の献身に対して報いることができなくなったことへの自責の念に胸が塞がっていました。
 医者から「外科療法は不可能」と宣告されて彼は、自らの“死”を見詰めるようになりました。
 彼が入学したあの名門大学を卒業し、一流企業へ就職して、姉を水商売から引かせ、一日でも早く楽をさせてやりたい、やっと親孝行らしいことができる、という彼の夢は無残にも破られたのです。姉がミナミのキャバレーで働き、学費を援助してくれることをいいことに、映画や麻雀に耽り、揚げ句の果てには結核を患うようになった自堕落な学生生活と自らの不甲斐なさを、彼は心の底から悔いていました。自分を大学へ行かせるために身を削るようにして働いた年老いた両親と姉の恩に、もはや報いることができないと思うと絶望感だけが彼を支配しました。
 彼の心はますます荒んでいきました。同室の患者ともほとんど口をきかなくなり、ちょっとしたことでも苛立って看護婦達を手こずらせました。
 そんな時、彼女は当時始められたばかりの「肺の切除」という新しい手術を彼に薦めました。しかし、この手術はまだまだ失敗例も多く、ひょっとしたら手術台から生還できないかもしれないという代物だったのです。
  彼女が薦めてくれた手術は、当時、まだまだ成功例が少なく、手術台から生還できないケースが多々ありました。彼にとっては「不安残る」どころか、死の恐怖さえ伴うものでした。しかし、安静にしている以外、他に方法がないということは治癒の見込みがないことを意味しているのもまた理解していました。 
 彼はイチかバチかこの手術に賭けたのです。しかし、それには体力の回復が前提であると医師から通告されました。
 彼女は担当医の許可を取って、軽い運動のために、毎日彼を散歩に誘い出しました。
 風のない暖かい冬の夕方でした。結核患者にとって日差しは禁物であることをよく承知している彼女は、わざわざそうした時刻を選んだのです。

<続>

Date:2017.11.10(Fri)18:23 | Category:[未分類]

秘密のあっ子ちゃん(33)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 ごく稀に、依頼が入り、調査にかかっている最中に、依頼人から中止の申し入れが入ることがあります。
 それはたいていは喜ばしいことが多いのです。というのも、探し人と連絡がついたというケースがほとんどだからです。
 少し前にもこういうことがありました。
 依頼人は二十四才の若い女性でした。二年間つきあっていた彼からの連絡が途絶えてふた月になると言うのです。彼はもともと仕事が定まらず、職を転々と変えていたのですが、ある日、「友達に誘われたから、東京で仕事をしてくる」と言って出て行ったきり、連絡がないというのです。
 「二、三週間で戻ってくると言っていたのに、もう二ヶ月にもなるんです。東京で何かあったのかと思うと心配で…」彼女はそう訴えました。
 三、四ヶ月前のこと、その頃はサリンだの、オウムだのと、東京はまだまだ騒然としていて、彼女の心配も分らぬではありません。
 しかし、こうした場合、事件や事故に巻き込まれたと考えるより、彼の個人的な都合で連絡を取らなかったと考える方が妥当です。
 そこで、私はもう少し待った方がいいと提案したのでした。
 東京へ働きに出て行くといったきり、二ヶ月もれんらくがないと悲痛な声で電話してきた彼女(24才)に、私はもう少し待った方がいいと言いました。
 「喧嘩をした訳でもないのでしたら、もうそろそろ連絡があると思いますよ。きっと忙しすぎるか何かでついつい電話もできないんじゃないでしょうかねえ」
 ところが、彼女はもうほとんど泣き出しそうな声で訴えるのです。
 「そう思って、毎日待っていたんです。でも、もう二ヶ月も経ってしまいましゃいた。二、三週間で帰ると言っていたのに…。ですから、今すぐにでも探してほしいんです!」
 私は、これ以上「待て」というのも酷な気がしました。「それでは」と調査を始めたのでした。
 ところが、調査を開始して三日目、彼女から再び電話が入りました。
 「お手数をおかけしていますが、お願いしていた調査、中止してほしいんです」
 「それは構いませんが、どうしてですか?」
 「昨日、彼から連絡が入ったんです。明日、大阪へ帰ってくるって…」彼女の声はこの前とは打って変わって弾んでいました。
 私は「ほらね」と言いたいところでしたが、「それはよかったですねえ」と一緒に喜んであげたのでした。
  調査中に依頼人から中止の申し入れがあるのは、ほとんどが探し人と連絡が付いたという喜ばしいケースが多いのですが、特に家出の場合の家族の喜びはひとしおです。
 これもつい先日のこと、二十三才になる娘さんが一週間前に家出したと、両親打ち揃って相談に見えました。
 彼女が家出した時の状況と手がかりを一通り聞き終えて、私が「全力で探させていただきます」と言うと、やっと安心されて、ご両親は帰っていかれました。
 私達はすぐさま調査の準備を始めていました。ご両親が当社を出られて三時間後、お母さんから電話が入りました。
 「今、本人から上の娘の方へ電話が入ったのです。明日また電話すると言って切ったらしいのですが、どう対応したら一番いいのか、ご相談したくて…」
そういう内容でした。
 家出の場合、たいていは何らかのコンタクトが本人から入ることが多いのです。その時を逃がさず、本人が帰れる状況にしてあげるのが、本人にとっても家族にとっても一番いいことなのです。
 私はすぐさま、再び連絡が入った場合、お姉さんがどう対応すべきかを指示しました。
  私は家出した彼女(23才)からお姉さんへ連絡が入った場合の一番いい対応を伝えました。
 「家出した人は何らかの形で身内の方にコンタクトを取られる場合が多いのです。それは本人からのSOSですので、頭ごなしに叱られないで、『お前の言い分はよく分ったから、無理に連れ戻すつもりはないが、もう一度話し合おう』とか、『心配しているので、せめて連絡が取れるように』とか、ご両親以外の方が本人さんの情に訴えられるのが一番いいと思います」   その後三日間、ご両親からは何の連絡も入りませんでした。本人から連絡が入ったものなのかどうか、入った場合、彼女はどんな反応を示したのか、私は全く分らずにいました。
 そろそろこちらから様子を聞かなければと思っていた矢先、お母さんから電話が入りました。
 「ちょうど、こちらからご連絡しようと思っていたところなんです」
「ご心配かけてすみません。やはりあの翌日、本人から上の娘へ連絡が入りまして、言われた通り対応しますと、『九州にいる』と言いますので、今、迎えに行って、連れ戻ったところなんです。本当に有難とうございました」
 早期に本人が見つかったこのケースは、両親の心配を思うと私自身も喜びはひとしおでした。

<終>

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プロフィール

佐藤あつ子

Name:佐藤あつ子
大阪府出身。奈良教育大学を卒業後、自らの「思い出の人を探したい。しかし、あまりにも料金が高すぎる」という経験から、従来のイメージを払拭した調査業者を目指し、昭和63年10月「初恋の人探します社」を創業。思い出の人探し(所在調査)をはじめ、家系図調査、企業調査など、長年培ったノウハウを元にした独自の調査方法で、判明率は90%以上を誇る。
また執筆活動においても大阪新聞に連載された「秘密のあつ子ちゃん 美人探偵・調査ファイル」のエピソードをまとめた「初恋の人、探します」(遊タイム出版)が、日本リスクマネジメント学会第3回RM文学賞を受賞。平成10年には松竹新喜劇において、同書を原作にした舞台「初恋の人探します社」(渋谷天外脚本)が上演された。
その他にも、ラジオ・テレビ出演、雑誌寄稿、起業家への創業支援や大学でのアントレプレナー養成などでの講演など、各分野において精力的に活動している。

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